「シャルトル大聖堂



 

 ロマネスク建築では教会は祈りの場所にふさわしい重厚な石壁を持った外観と薄暗い内部空間が特徴であった。教会の壁面や回廊の柱頭に聖人や動物、抽象文様などが浮き彫りされていたが、自然な形を無視して、その柱の枠組みに合わせて無理に変形させていた。
ロマネスクとは対照的にゴシック建築では戸外の光を取り入れ、聖堂内を出来るだけ明るく豪華に飾り立てることで、神の栄光をたたえ、より神に近づくため高さを求めた。先の尖った尖頭アーチと肋骨
穹窿を採用して、それにより天井が高くなり、より垂直感が出るようになった。大きくなった窓に美しいステンドグラスが嵌めこまれ彫刻では人像彫刻が出現した。

ロマネスク建築がやわらかい曲線で構成されているのに対して、ゴシック建築は直線的で天空に聳え立つゴシックの塔を見上げると、神の崇高さと教会の絶対的な権威を感じさせられるが、逆にゴシック美術の方がロマネスクより人間的で優美なまでに「写実的な表現」を特徴としている。威厳に満ちた神の像より、むしろ慈愛に満ちた母の像が好まれた。

 シャルトル大聖堂はフランスの首都パリからおよそ南西90qほど離れた都市シャルトルに位置しフランス国内において最も美しいゴシック建築の一つと考えられている。
何百年の間、シャルトル大聖堂は聖母マリア巡礼者達の極めて重要な拠点とされ、忠実な信者達は今日になっても聖衣物を讃えるために世界各地から訪れる。
シャルトル大聖堂は街で最も重要な建造物であり、聖堂の周囲で行われた縁日には多くの巡礼者が集まるなど経済の中心でもあり、聖堂学校としても機能していた。この聖堂学校は学問の重要な中心となった。優れた腕を持った芸術家、職人、商人も都市の中から出るようになった。

建設に要した莫大な費用はフランスのあらゆる地域、あらゆる階級の人々が進んで行った寄付によって支えられていた。神を「光」として捉え、ロマネスクの重々しい分厚い壁を減らして、神の象徴としての「光」をより一層、豊かに取り入れるため窓を拡げている。西暦1260年、聖ルイ王(ルイ9世)統治下で聖堂が完成した。

 建築では対照的な二つの尖塔は、右側はロマネスク様式の質素な角錐で左側はゴシック様式の火焔式の塔から成り立っている。淡い緑色の屋根を突き抜け高く聳え立っている。アーチ列の開口部は非常に高くて狭い穹窿の形は極端に高く、窓の部分は非常に大きくなっている。ロマネスクの重々しさがなくなり、優美になり重量感を感じさせない。

 ゴシック彫刻はS字形に捻れた姿態、柔和な相貌流麗な衣襞などを特徴とする。西側のファサードにある彫刻はキリストの生涯をテーマにし、キリストの天国への昇天、彼の生涯、聖人、使徒からのエピソード、更に聖母マリアの膝元に抱えられるキリストなど、宗教場面を描いたものである。キリスト教的世界観にもとづく、さまざまな事柄を学び取ることが出来るように、キリスト教の教義が誰にでも理解できる「石の百科全書」として、文盲の民衆への絵解きとされたのである。

 頭部、とくに顔の表情が温和で人間的性格を帯びて、穏やかで厳かになる。「写実的な形態」円柱人像から丸彫人像へと発展していく。

「王の扉口」には王や王妃の彫刻群が立っている。王と神との間にある結びつきを密接に含意する意味合いがあるとされ、また王族の権威や王族たちがキリストに関連する人物と近いことも示している。フランス王を旧約聖書の精神的後裔として位置づけ、世俗的統治と精神的統治、教会と王権を融合させるようにもくろまれた。

シャルトル大聖堂には「美しきステンドグラスの聖母」など12世紀、13世紀前半のステンドグラスの傑作が多数残されている。聖母マリアとキリストを描写したものやアダムとイブの物語を描いた失楽園、ノアの箱船が名高い。西正面、キリストの幼児伝、エッサイの樹、キリスト受難伝を表した三つのステンドグラス窓、周歩廊の窓の一つを飾る美しき絵ガラスの聖母など、文字が読めない人が多かった時代に人々に聖書の物語を伝える役割を担っていた。「荘厳の聖母を表した3枚のパネルはほの暗い聖堂のなかに浮かびあがる神秘的な青と赤の光の輝き、見るものの心を神の国へと誘う。神を「光」として捉える、宝石のごとく五彩に輝く神秘的な輝きは、天上の光への憧憬をかきたて、その憧憬が大きな窓を開けさせることになったのである。ゴシック建築そのものが、ステンドグラスのために窓を拡げ、堂内の空間を高くする方向へと発展させた。聖堂壁面を半透明な光のスクリーンに変えるステンドグラスこそ神を光として捉えたゴシック時代に最もふさわしい芸術形式といえる。

1213世紀、封建的な大貴族の勢力から、ようやく国王の権威が伸長し始め都市は復興の兆しを見せ、政治、経済、文化的に重要性を増すようになる。都市の成長に伴い、都市の大会堂、大聖堂が信仰生活の前面に現れてくる。ロマネスクでは文化的な営みのほとんどが修道士や聖職者など限られた人々の手に委ねられていたのが、文化の担い手として都市の興隆に伴い出現した裕福な信徒や知識人など広範な社会層により新しい思想を迎え入れ思想や技術、知識の面で大きな前進をとげた。

国家の精神的な中心地、最も壮麗な巡礼路聖堂、そして宗教的、愛国的感情の焦点にしようとした。宗教的情熱、愛国的情熱、そして芸術的情熱が具体的な形を取ったものである。神の家である「聖堂」は神の御光、神の神秘的な啓示として、もっとも神聖なる、窓から降り注ぐ「奇跡」の光によってみたされたものでなければならなかった。

                              

 

                           (2009年6日)