「江戸時代の代官と官僚機構としての
NHK




テレビの「歴史ドラマ」は見ないようにしている。敢えてNHKとは言わないが、歴史と言いつつ歴史に名を借りた、ただの作り話で内容に「嘘」がありすぎる。

ただ、「水戸黄門」だけは時々見ている。最初から作り話であることが分かっているから娯楽として気楽に見れる。ドラマは「人生苦もあれば楽もある・・・と言った歌詞の音楽に始まり、毎回、小悪人が悪の限りを尽くすが、40分をすぎる頃に悪党どもがお仕置きされる」単純なストーリーである。悪事を働く勇気も無い小心者、汚職や賄賂を受け取るチャンスすら与えられない一般庶民としては悪党が最後にひどい仕打ちを受けるのは気持ちが良い。

「お主も、よほどのワルよの〜」とはコマーシャルに出てくる悪代官の姿であるが、これも水戸黄門の悪影響か。代官といえば、煌びやかな衣装を着ているお殿様。悪徳商人と結託して、自分の立場を利用して悪い事をする人と言ったイメージであるが、これは最もらしい歴史の嘘。実際には地方民政官として農民を思いやり、心を砕き、治水、灌漑や飢餓対策といった農民救済に尽力した代官の姿が多く見られる。



それぞれの時代のさまざまな代官像

 江戸時代の初期には家康の信任のもとで実務をとり仕切り,広範な権限を持ち、検地、灌漑、治水、鉱山開発等独自のノウハウを持った代官頭というテクノクラートがおり、さらに在地土豪や豪商など多彩な顔ぶれが代官にみられた。初期の代官は在地に根ざし代々家職として代官を継承していく場合が多く,個人経営的な年貢請負人的性格を持っていた。
 
2代秀忠の頃には幕府制度も整備され,広範な権限を持つ代官頭の存在は桎梏となり死去,失脚により姿を消していく。             
 綱吉が5代将軍に就任した頃には,財政支出が増え経済的は破綻の兆候が見えはじめた。代官の監査強化により、年貢滞納や年貢流用等の理由をもって、代官の大量処罰が実施された。システム的欠陥によるところが多く,一概に代官の不正によるものとはいえなかった。

幕府は代官から中世以来の既得権益を取り上げ、不良債務を清算し、会計制度を整備するものであった。綱吉の狙いは封建官僚機構の整備にあり、家康以来の流れを断ち切り,館林時代の家臣を登用し,自分の意のままに動く家臣を能吏として側近に揃えることにあった。

在地との関係を持たない人間を代官として派遣し人事の流動化を図り、代官を家職から幕府官僚機構における「職」として、幕府組織における中間管理職として位置付けられるものであった。この綱吉の「天和の冶」により代官の意味は大きく変貌する。

8代将軍吉宗は譜代門閥層を重んじる行政組織に戻す反面、実務官僚は門地家柄にとらわれることなく有能な人材を代官に登用し,不正をしなくとも必要経費が不足する制度的欠陥を改善し代官に必要な予算、役職手当を支給した。

いわゆる田沼時代に重商主義政策をとり,農政を軽視した結果農村の疲弊を招き、幕府財政は破綻寸前となる。松平定信は手代の不正放任や負金莫大などで代官を遠島など処分、4分の3の代官が入れ替わった。儒学をはじめとして文人的素養を持った人物を代官に抜擢し定信の重農政策を実践させ民衆教科や農村復興にあたらせた。手付を創設し組織内失業者対策として御家人身分の中から有能な人材を抜擢,就職の機会を増やすとともに手代の行動を監視させ牽制させた。

天保期には内憂外患に対応するため有能な代官を関東に結集させた。江戸後期になると幕府の機構そのものが弱体化し、その補強のため身分にとらわれない人材登用がもとめられるようになる。このように代官の位置付けも江戸幕府270年を通して大きく変容する。



幕府政治における代官の職務と地位

 一般の認識として、時代劇に描かれる代官は悪徳商人と結託し賄賂を取り、農民に過重な年貢を強いる徴税官の姿であろう。代官と徳利の首には終には縄のつくもの、代官とは悪いことをして処罰されるものだという認識が当時からあった。5代綱吉の時代、年貢滞納や年貢流用等の理由で代官の大量処分が実施された転換期で、そうした時代の背景が悪徳代官のイメージに繋がっているのであろう。農民にとって取り入り難い役人、厳格な人物には虚構により排斥運動もおこった。愚昧百姓とヘリくだりつつ、責任を代官に転嫁し「悪代官」像を仕立てていた節もある。公式記録のなかからは下僚としての手代が悪事を働くことはあっても、代官自身が悪徳商人と結託して賄賂を貰うといった事例は見出せない。むしろ、地方民政官として農民を思いやり、心を砕き、治水、灌漑や飢餓対策といった農民救済に尽力する代官の姿が見える。

 旗本が幕府官僚として就職するスタートラインは各家の由緒や家禄、先祖の職歴や父親の現職などにより決められていた。代官は職階給制度では150俵と旗本としては最下層に属する者たちの就く役職に位置づけられていた。代官をサポートする手代を見ても、組織定員外の嘱託員であり、こうした組織の中核でない人びとによって幕府組織の基盤が支えられていた。

代官の職務は地方と呼ばれる年貢徴収他民政一般事務と公事方と呼ばれる警察及び裁判事務であった。代官の裁量は狭く、恣意的な徴税は制度上できなくなっていた。代官は勘定所の出先機関長として幕政政策の遂行を求められる一方で、なんら決裁権はもたず稟議を経ないで独自の政策実行は不可能であった。一方部下の行動にも監督責任を問われ、代官の責任に帰さない一揆などが起こっても責任は代官に科せられた。
 代官になると屋敷の改造費、引越費用で2000両かかり部下に悪い者がいて年貢に損失が生じると倹約しても借金返済に30年はかかる経済的リスクの多い役職で子供に継がせたくない役職であった。転勤とともに借財も抱え一歩間違えば現代でいう懲戒免職によってすべてを失う危険性もあった。下僚に落ち度、不正があれば、その責任は代官に回ってくる、優秀な下僚がいれば代官も安泰であった。いかに有能な下僚を抱えるか、人事管理ができるかが代官の評価につながった。

流動的な身分移動の中で下僚としての手代は非幕臣で農民をふくめ広く一般から登用され、一種のリストラによる雇用調整弁の役を果たしていた。手代は薄給のうえに保障の無い不安定な身分から自分が現役で働けるうちに家族のために、後々のため不正金銀を蓄えようとする傾向があった。正規の幕臣でない手代たちが実質幕僚支配を左右していた状況、手代の横暴と悪徳に悩まされる代官の姿があった。寛政改革期に手付制が導入されるが職務不案内の御家人を採用したがらない代官もいた。利得集団化した既得権益を守ろうとする手代たちの抵抗にあい、手代の廃止までは至らず、結局両者は併存していく。

役所の業務333日間の内、代官は277日間出勤、56日間は役所に出勤していない。病気が18日間、将軍等の御成、検見廻りなど公務出張が34日、役所は午前9時から午後3時まで、代官の出勤は午前10時から午後2時までと日常の勤務については余裕のある暮らし振りが伺えるが、一朝、地震や洪水などの危難が訪れれば、すぐさま村々を廻り、米食などの供出、陣屋の再興は後回しにして、仮小屋で陣頭指揮に当たって、不眠不休で被災地の見分や復興対策に奔走する代官の姿がある。
 江戸幕府の礎を築いたのも代官であり、全国400万石に及ぶ幕府領の財政基盤を支えたのも代官である。



贈答儀礼と現代社会への影響

江戸の社会において,贈答儀礼は円滑な社会運営には必要であった。贈収賄にかかわる法令は贈賄側の罰則規定があるだけで収賄側には無かった。

代官から湯呑所、休息所といったところで給仕や雑用をしてくれる物、あるいは御金蔵や評定所への出入りの際に対応する者たちへ、職務を円滑に進めるための心づけが支出されていた。日常的に祝儀を名目とした金品贈与は儀礼の範囲内で行われていた。
 農民においても「諸事願い事があると、金銀を出すものである。」と言った付け届けの慣習が根付いていて、農民からの贈答や接待も一般化していた。
 先にもらうから賄賂、後でもらえば謝礼と言った言葉もあるぐらい、見返りを期待しての贈答にはおおらかな考えであった。

江戸にいて検見の時だけ任地に赴く代官にとって、検見は通り一遍で、幕府の威厳を示すためのセレモニーと化していたと言える。

代官は年貢などの決定を元締に任せ、取り決めていた例もあった。査定を丸投げした代官は最後に村高100石につき永70文の割合で村々から徴収した餞別40両余りを受け取り、懐重く江戸に御帰還した。

破免検見を願い出ると、謝礼、検見に必要な物品も自己負担となり、接待も必要であった。一連の査定と接待が済むと役人すべてに謝礼とし全経費の75パーセントを占める金銭を贈っていた。

また、御救拝金を受けるのに元締へ1両の賄賂を出せば5両の拝借が出来る。
手代3人で廻村したところ賄賂金が1000両余になった話などもあった。

 本来、村のために賄賂を贈り村の側に立つべき村役人が賄賂費用として百姓たちか10両を集め5両だけを遣い残りを中間搾取していた例もあった。

5万石の支配地で農民が年貢以外に負担している500から600両の内5分の1程度は陣屋修復費用などの正規の出費であるが残りは手代の受納や村役人の酒食といった不正支出であった。

現代社会においても患者から医者へ、さまざまな付け届けの慣習は残っており、社会保険庁の公金流用問題、大阪市にみられるカラ残業や説明のつかない特殊勤務手当てなど税金を私物のように扱う感覚、納入業者に役人が飲食をたかる構図、その見返りを期待する業者など、日本人の慣習として贈収賄行為は体質の中に根強く残っている。



官僚機構としてのNHK

 贈収賄行為が日本人の体質の中に根強く残っている例としてNHKを取り上げる。

NHKの元プロデューサーがイベント会社社長に番組構成委託料として虚偽の放送料計算書を提出させ、イベント会社の口座に払い込ませ詐取した。その内の半分以上が元プロデューサーにキャッシュバックされ、個人の遊興費や飲食代に使われた。農民にたかる役人と見返りを期待する農民の構図であろう。

過去にもNHKにまつわる不正経理や職員の受信料着服、カラ出張、ソウル支局長の杜撰な精算など不正に関して、NHKは話題に事欠かないが、一般企業なら懲戒解雇が相当であろうと思われる事件でも担当者はたいした処分を受けていない。まさに、様々な不正を働くNHK職員は「手代」と二重写しである。

組織の構造的不正を一部の不心得者の仕業と言い切り、組織の最高責任者としての自身の責任を全く感じない海老沢勝二なる人物は「悪代官」と揶揄されても仕方ない存在であろう。

国会における海老沢勝二会長の参考人招致が「編集権の問題」として生放送されなかった。そのことで国民からの強い批判を受けることになるが、その後の謝罪番組でも会長が追及される場面はすべてカットされた。自身の不都合は報道しない、「隠蔽体質」はすでに放送機関としての機能を失っていると思われるが、このような不正がありながら、NHKの予算案は、自民党はもとより共産党に至るまで問題を指摘することなく、例外なく毎年、全会一致で成立してきた。この事にNHKと政党との癒着を感じる。

NHK職員の相次ぐ不祥事に法令遵守を強化する目的でコンプライアンス推進室なるものを立ち上げたが、その後も痴漢,万引き、詐欺、横領と事件に事欠かない。

2008年度だけでも,職員のインサイダー取引,NHK経営委員会の委員が経営する企業が7年間で1億5千万円の所得隠し,NHK職員がイベント会場で私物ノートパソコンを使っての猥褻映像を流す、落語番組の音源盗用記者3人のインサイダー取引など数えれば限がない。近頃、受信料徴収に関してNHKはトーンダウンしたが,これらの不祥事を考えた時、NHKこそ早期に解体すべきであろう。

   

                              (2009,2,19)