贋作美術史発掘(2)

 

「永仁の壺」事件

―戦後贋作美術史最大のミステリー

 1943年(昭18)、愛知県の道路改修工事現場で古瀬戸の壺が発見される、「永仁二年」の銘が入っていたので、陶磁史上の大発見として大きな話題となる。
1946年(昭21)、東京美術倶楽部で展示され、陶芸家の加藤唐九郎がこの壺の解説を行う。
1948年(昭23)に文部技官で陶磁研究家の小山富士夫が「この壺」を重要文化財に指定するよう提案するが、銘文に疑問があるとして見送られる。

1954年(昭29)、唐九郎は自ら出版した『陶器大辞典』に原色図版で紹介する。
重文指定に反対していた委員たちが他界した後、1959年(昭34)、小山は再び重文指定を求める。この時は何ら議論されることなく、満場一致で重文に指定される。
永仁の壺は怪しいとの噂はずいぶん前から地元ではささやかれていたが、
1959年(昭34)、名古屋の丸栄百貨店で「火と土の芸術展」が開催された頃から偽物の疑いが決定的になる。

翌年、1960年(昭35)2月に読売新聞が永仁の壺に「ニセモノの疑い深まる」と報道し騒動が大きくなり、唐九郎が疑惑の人物とされる。彼は頑なに「壺は本物で疑惑はでっちあげだ」と否定するが、結局、唐九郎が自作の壺であると告白し、翌年、科学分析の結果、鎌倉期の作ではあり得ないと証明され、重文指定を解除される。これが事件の概要である。

芸術新潮1960年12月号の対談の中で、青山二郎氏は「文化財保護委員会の連中に目がないから悪い」と発言している。唐九郎が学界や役人を嘲笑うため、わざと松留窯を仕込んだ、彼の所業を虐げられてきた陶人の魂の造反であると讃える人もいる。
村松友視氏も自身の著作の中で、唐九郎はこのような事件を起こすことで、陶芸の価値がある特定の人々によって決められている、既存の陶芸界の権力構造に反撥した。陶芸を広く世間に示し、陶芸の価値を高めたと彼の行為を擁護している。

しかし、私はこの考えに反対である。松留窯と言う、鎌倉時代の存在しえない瀬戸古窯のデッチ上げ、もっともらしく見せる演出、自分が発掘したと称し、その陶片を根津美術館に持ち込み、礼金として2千円(現在の440万円から520万円)を手に入れている。自分が作ったものであるにも関わらず、鎌倉時代末期の出土品と解説をおこない、自分で編纂した『陶芸大辞典』にカラーで図版まで載せている。

松留窯出土と称して、根津美術館に陶片を寄贈するのは、永仁の壺事件の17年前、松留窯の陶片が重要文化財に指定する判断材料になった事を考えると、実に綿密に計算され、長期的に計画された大がかりな歴史の捏造事件と捉えることも出来る。旧石器発掘捏造事件を引き起こした、民間の考古学者の幼稚な手法と比較すれば、知能的で余りにも手の込んだ見事さである。

唐九郎は「みんな偽物と言うがあれは偽物じゃないよ。偽物というのは、本物があっての偽物じゃないか。永仁の壺は本物がないんだから。あれは僕の本物の創作だよ」、何か具体的な作品をまねしたのではなく存在しない永仁の壺をデッチ上げただけと主張するが、歴史を歪曲する行為はただ単なる偽作を作るより、もっと罪が重いと考える。

唐九郎も口をつぐんだまま亡くなった。関係者たちも沈黙をし、真相を語ることなく他界した。何が嘘で、何が真実かさっぱりわからない。ますます謎は深まるばかりであるが、贋作を作ってよしとする瀬戸の風土があって、古瀬戸の「写し」を本物と称して売り捌く、唐九郎は悪知恵を働かして、より高く売るために、廃れた古窯をデッチ上げ発掘劇を演出しただけである。「永仁二年」の銘があったばかりに、贋作スキャンダルに発展したと推測できる。

 

永仁の壺事件に興味をお持ちの方には、松井覚進著、『永仁の壺 偽作の顛末』講談社文庫を読むことを薦めます。ただし絶版のため古本市場で探して下さい。