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「文禄、慶長の役により日本の窯業に与えた朝鮮陶器の影響
 




はじめに

日本の文化は古来、朝鮮半島からの影響を受けて発展してきた。窯業においては六古窯に代表される日本の「中世陶」も朝鮮からの技術導入抜きには成立しなかったと考えられる。文禄、慶長の役後、朝鮮人陶工により山口、九州各地で窯業が開始されるが、それらが在来の日本の窯業に、どのような影響を与えたかを論じたい。


1・古代における朝鮮陶器の影響

 朝鮮の焼き物は日本と同じく赤焼き土器から始まるが、中国の硬陶の影響を受け2世紀から3世紀ごろ釜山近郊の金海で新羅焼が開発され、大きな発展を見せる。
 5世紀、古墳時代に須恵器が朝鮮半島から伝わる。これは全く新しい技術で窯を使い高温で焼成されたbと呼ばれる非常に堅い焼き物で、自然降灰により表面がガラス質で青灰色をしていた。須恵器が伝わる事により日本の焼き物は土器からb器への飛躍を遂げ、高火度の窯を用いた技術水準の高い焼き物が作られるようになる。

7世紀、飛鳥時代に鉛釉の技術が伝わる。これにより施釉陶器が日本で完成したと言える。



2・朝鮮陶器の発展

朝鮮では10世紀に中国越州窯の青磁の技術を得て高麗青磁が生まれる。12世紀には翡色の青磁と呼ばれる中国人も魅了する翡翠のような色の青磁を開発する。
 単色の青磁に飽き足らない人たちが豊かな模様の探求し「象嵌青磁」を開発する。ここに朝鮮陶磁は飛躍的な技術進化を遂げる。
 14世紀になり、文様が簡略的に表されなど大量生産の基盤づくりがおこなわれ、実用的な器を求める気運が高まる。紋様が大胆奔放になる。その反面、粗製乱造により杜撰な作り方となる。美しい翡色も酸化焔焼成気味になり茶色味を帯びてくる。
 そして、白土の装飾を施した「粉青沙器」と呼ばれる、三島、粉引、刷毛目が現れる。
1392年、高麗王朝が倒れ、朝鮮王朝が成立する。
中国の支援を受け高麗王朝を倒した背景から朝鮮王朝は中国に恭順、15世紀前半、白磁の発生と発達を遂げる。



3・中世における日本陶器の展開

 朝鮮から伝わった須恵器は還元焔焼成で、酸素が欠乏した状態でいぶすように焼成するが、12世紀の平安時代末に酸化焔焼成へと転換する。猿投窯系列の常滑焼と渥美焼から信楽、丹波、越前の窯が開かれる。
別の系統として、須恵器の伝統を受継ぐ窯業地として備前、珠洲が開かれる。この2系列が日本の窯業として発展していく
 16世紀、桃山時代に日本独自の茶の湯文化が起こる。それに伴い焼き物は技術革新を遂げる。陶工・長次郎が黒楽、赤楽を開発し、1586年に美濃で黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部が開発され、備前、信楽、丹波、伊賀に伝えられる。ここに日本独自の焼き物が成立する。


「侘び」、「寂」を茶の美と考えるわび茶の隆盛により信楽、備前、伊賀、丹波は評価され、常滑、珠洲、越前は疎んじられる。朝鮮の人達にとって美の対象としては評価が低かった三島、粉引、刷毛目の素朴さが、わび茶の条件を満たすとして、日本の茶人に珍重されるようになる。ここに朝鮮民族と日本民族の美意識の違いを見ることが出来る。



4・文禄、慶長の役、以降の日本の窯業

 豊臣秀吉は1592年(文禄1)と1597年(慶長2)の2回にわたり朝鮮半島に兵を出す。肥前名護屋城近くに約30万人の軍隊が集まり、約15万人が朝鮮へ渡り、多くの人々を殺戮した。文禄、慶長の役と呼ばれ、韓国では壬申・丁酉の倭乱と呼んでいる。兵を引き揚げる時に朝鮮陶工を自国に連れ帰り焼き物の生産に従事させた。文禄、慶長の役以降、朝鮮系の製陶技術が山口、九州各地に伝わり、江戸時代の窯業の特徴を出してくる。文禄、慶長の役はやきもの戦争と呼ばれているように、焼き物後進地域であった山口、九州の大名が計画的に窯業を興そうともくろみ、多くの朝鮮陶工を連行した。この事により朝鮮半島の焼き物技術は途絶えてしまった程であった。そして唐津、萩、薩摩、有田、上野、高取、伊万里、その他の窯業地が開かれる。

@・佐賀県 唐津
 文禄、慶長の役の少し前、1580年後半、唐津市の南の北波多村にある岸岳山麓に窯が開かれたが、10年ほどで閉鎖された。
 その後、連行されてきた陶工により肥前の各地で窯場が開かれる。筆による描画技法と施釉の一般化、登り窯が伝えられる。その頃、岸岳山麓の窯で焼かれたのが金海の熊川茶碗を写した「奥高麗」と言われている。

A山口県 萩
 関ヶ原の戦いに敗れた毛利は安芸の広島から長門の萩に移封され、1604年萩に入府。朝鮮から連行した李勺光、李敬兄弟も萩に移り松本に開窯する。1653年、勺光の子、松庵の弟子達が深川焼きを開窯。萩焼きはその形態に粉青沙器の伝統技法を忠実に引き継いでいる。

 B・鹿児島県 薩摩 
 1598年、島津軍により拉致された陶工ら3隻の船でおよそ80人。一隻は鹿児島前の浜に男女およそ20人、2隻目は神之川に男女10人ばかり、3隻目は串木野島平に43人を乗せ着船した。一般に堅野系(鹿児島市)、龍門司系(加治木)、苗代川系(伊集院)等に分けられる。串木野島平に到着した43人は約5年間、放置され乞食同然の半農半窯の生活を強いられる。1603年薩摩藩の庇護のもと苗代川に移り窯業を興す。
 薩摩藩は政治的、経済的政策から高麗人の集住部落をつくり、和名を禁止、朝鮮名を名乗らせ朝鮮語を喋らせる。朝鮮の服装をさせるなど、伝来の習俗を保持させ、日本人との交際を禁止する。
 唐津、萩、その他の窯業地では朝鮮陶工に日本社会への同化を求めたのに対し、苗代川に対しては他地域とは差別的な「異化政策」を取り、同化する事を禁止した。
 保護政策のもとに窯業を奨励、薩摩藩は当時、当時の茶文化の流行のなかで陶器の製造による収益に期待した。陶業の振興、苗代川への保護と優遇の裏には、技術の秘密保持、製法が外に伝えられることを厳しく取り締まり、秘密が漏れないように集住のもとに隔離し内部では習俗の保持のもとに統制が行われた。その結果、外から隔離された世界では朝鮮式の陶磁器技術と習俗が、そのまま今日まで伝わっている。



5・日本の窯業への影響(まとめ)

 丹波焼を例に、朝鮮式の窯業技術が在来の窯業地に伝わり、どのように影響を与えたか、それぞれの陶器の類似点にについて述べたい。丹波焼は文書による文献史料が極めて少なく、古窯の発掘もなされていない。したがい丹波焼の創世期から江戸末期までの作品を年代、形、釉薬、装飾などに分類し、文禄、慶長の役の以前と以後でどのような変化があったか、文禄、慶長の役以後、朝鮮陶器の特質がどのように表現されているかで分析をした。 
丹波焼は平安時代末期に常滑系の窯業地として開かれる。桃山時代までは穴窯が使われた。当初は中央政府、社寺の求めに応じて祭器や経壺、薬壺を製造していたが、土の質が悪く、窯の性質から要求に応じられず、大壺、瓶、擂鉢などの大衆の生活用具を作るようになる。
慶長16年(1611年)ごろ、朝鮮式の登り窯が導入され大量生産が可能となる。
当初登り窯は大型であったが江戸後期になるに従いだんだんと小型化してきたと考えられる。蹴り轆轤の導入、ロクロの回転が左回転となり、従来の紐造りからロクロ仕上げと変化する。大型の壺や瓶、擂鉢を作っていたのが、桶、茶入れ、水指、茶壺、茶碗、花器などの茶器、徳利などの生活用品が加わる。
 焼き締め、無文の自然降灰から釉薬を使用することになり黒釉、赤土部の技法が使われ、朝鮮陶器の特質である草花文や魚文が描かれるようになる。
登り窯の導入により大量生産が可能となり、窯の効率の向上により窯焚の時間が短縮され、失敗が少なくなったが、非効率的な穴窯で長時間の焼成により表現できていた自然降灰釉の雰囲気や釉肌が表現出来なくなった。窯の性能の向上により桃山期に焼かれていた焼き物が焼けなくなった。
魚文、草花文の筆による描画、黒釉、化粧土の使用と言った朝鮮陶芸の特徴が、丹波,、美濃などに伝えられた。抽象的な志野、織部模様の一部も三島茶碗の文様からの転用と思われる。
織部、志野と呼ばれ、日本の伝統芸術と思われている焼き物の中に、朝鮮陶芸の伝統が色濃く反映されている。





                          
 玉川大学キュレーターズ 研究・活動発表 2009年6月13日(土)  玉川大学号8館224教室



                                               (2009年6月13日)


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