『「伊万里」からアジアが見えるー海の陶磁路と日本』


                              坂井隆著  講談社メチエ  1600円

 

 
本書は陶磁器を中心にモノの交流(流通)を通して、17世紀後半のアジアの歴史を描いた書物である。歴史に興味のない人には多少退屈に感じられる章もあるが、俗説に惑わされず、歴史的な史実にもとづき書かれている。イマリの航路を克明に追跡し、多民族社会としての長崎の社会状況をよく顕している。近世初頭日本は「鎖国」と後に称せられる貿易統制下にあつたが「鎖国」という暗く閉ざされたイメージとは異なり、大きな世界の貿易網に組み込まれ、アジアのネットワークの一員として、アジア全域の大きなうねりの中で、日本もまたダイナミックな変動っを遂げていたことが述べられている。
 1644年、農民反乱をきっかけに明王朝が崩壊し、それに伴いイマリの作風がどのように変化したのか、その歴史背景が述べられていて興味深い。一般に帰化朝鮮人の李三平が有田の泉山で磁石を発見し、それから日本の磁器生産が始められたと伝えられているが、それ以前に遡り、文禄、慶長の役以後、西国諸大名が連れ帰った朝鮮陶工により磁器を作る試行錯誤がなされ磁器生産の体制が確立されつつあった。
 初期イマリは朝鮮王朝風の淡い染付であったが、明王朝が崩壊した1650年を境にイマリの作風が変化し、輸出最盛期には明王朝末期の中国の景徳鎮とほとんど同じ作風になっている。明王朝が崩壊し、清王朝が成立すると、清は海外貿易を禁止し、それに伴い景徳鎮は生産能力能力を失う。中国人陶工は戦乱を逃れ、日本に渡来し技術指導、原料供給、販売システムを含め、景徳鎮を日本に持ち込み、日本のイマリで景徳鎮をの磁器を生産し始めた。
 当時の中国磁器は良質なものとしてヨーロッパの人々の渇望であったが、それが中国の戦乱により入手出来なくなる。それに似た磁器をヨーロッパ人が探すようになる。当初、ヨーロッパ人が求めたのは「イマリ」ではなく中国磁器代用品として、景徳鎮とそっくりな日本の磁器であった。そして1690年以降、再び中国磁器がヨーロッパの陶磁市場にあふれ、日本磁器の輸出の低落にともない、柿右衛門様式や染付けと言う、いわゆる古伊万里と呼ばれる、日本独自なものが生産されるようになった。この時から「イマリ」の名がヨーロッパ人の羨望となる。


                  玉信キュレーターズ会報 弟13号掲載 (2001年7月7日)