「在日朝鮮人社会の歴史的形成」    




はじめに

 日本に在日朝鮮人社会が形成された歴史的背景について述べ、人間のあり方、社会のあり方について考えてみたい。


在日韓国、朝鮮人の形成

 1910年、「韓国併合条約」によって朝鮮を植民地とし、統治下の植民地政策で生活手段を奪われ、生きる糧を求めて日本への渡航が始まった。その原因は土地調査事業と産米増産計画にある。ほとんどが生活の手段を奪われ、生活の糧を求めて日本に来た。在日朝鮮人が不況下の日本で底辺層労働者として生活し日本人の低賃金維持に利用された。

@     土地調査事業
 近代的な土地所所有権の基礎を築くと言われたが、実態は日本が土地を管理し各種納税で利潤を得るための政策。手続きも煩雑で「申告すれば余計な税金がかかる」などデマを流して、読み書きが出来ない農民を騙すようにして土地を取り上げ、日本の会社に売却、農民は小作化し生活基盤を失い農村を離脱せざるをえなくなる。

A     産米増産計画
 米騒動が発端で日本国内の食料問題を解決する目的で水利施設の完備、耕作方法の改善で米の増産を目指したが失敗。農民に金銭的負担が増大、農民は借金を抱え仕方なく土地を売却して都市へ、国外へ流れて行った。



日本の資本主義の発展と朝鮮人の強制連行 

 日本の資本主義の発展と韓国、朝鮮の農村の荒廃が朝鮮人を労働力として受け入れ、日本の韓国・朝鮮人植民労働が形成される。日本の侵略戦争による労働力の不足を補うため国家権力により朝鮮人を日本へ大量に集団連行させる。1939年以後は直接的暴力的強制によるものである。

中津川事件

1922年(大正11)7月29日付け 読売新聞

「中津川事件と呼ばれる朝鮮人の虐待、殺人事件が発生した」「信濃川を頻々と流れる鮮人の虐殺死体、北越の地獄谷と呼ばれ・・・逃げ出すとなぶり殺し山中に腐乱した死体が転がっている」山奥のダム工事の現場で朝鮮人労務者が奴隷労働に従事させられ、朝鮮人飯場に収容、監獄部屋と呼ばれ暴力的な労務管理、殴る、蹴るの虐待がなされ、逃げ出す者は見せしめに殺してしまう、そして死体は中津川の橋の欄干に逆さ吊りされていた。



日本が朝鮮に担わせた役割と皇民化政策

 日本の工業化に伴う安価な食料と労働力の供給で、1920年以降、本格的に在日朝鮮人の労働者層が形成されていく。日本社会の朝鮮人に対する差別的な状況、無権利状態のなかで彼らの就く仕事は低賃金、劣悪な労働条件、極度に不安定なものに限られ、朝鮮人の生活は悲惨をきわめた。「皇民化政策」によって協和会という団体を作らせ、その団体を通して思想状況を把握し、創氏改名、国家神道、「日の丸」の掲揚を強制し、朝鮮人としての民族性を消し去り外見も内面も日本人化することを企てた。日本人に似させることを強要する反面、朝鮮人なるが故に排除していく、二重の差別構造に置かれていた。



戦後、在日朝鮮人の実態

日本の敗戦によって植民地支配から解放されるが、サンフランシスコ講話条約で国際法で保障されている「国籍選択権」を認められない差別的な取り扱いを受ける。
 解放後、祖国に帰るが祖国は荒廃していて生活のため、又 日本に戻って来る。
底辺層労働者として戦後も生活していくが、肉体を元手に日銭を稼ぐ仕事しかなかった。社会的、経済的な地位の低さ、まともな就職が出来ないなかで、1970年、日立製作所就職差別事件(裁判)が起こる。



おわりに

 日本人の精神的優越性は、日本人を満足させ高揚感を与える。極めて安易な方法であるが、戦争のさなか、愛国心や郷土愛を育み、強い日本を作り上げる事が、当時の日本政府の課題であった。韓国・朝鮮人は、そのために格好の利用対象であった。
在日朝鮮人は植民地時代と、その後の時代も日本社会から差別を受ける。
 他民族と認めず、日本人化させる日本人の意識が問題である。「同化」は日本人と平等を意味するものでなく、日本国家の枠の中に最低限に差別されたまま組み込んで行く事である。権力者に都合がよいように弱者が差別化されていく、日本社会の差別の構造が問題である。




                                        (2009年6月4日)