ディエンビエンフー・インドシナ戦争の激戦地をゆく
坂本正通
ハノイから北西461キロ、車でおよそ12時間、ラオス国境近くの辺鄙な山間部の盆地にディエンビエンフーはある。
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勝利の丘から見たディエンビエンフー全景 |
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ムオンタイ橋から見たディエンビエンフーの街 |
このディエンビエンフーの街こそ、今から63年前、ベトナム独立同盟軍(ベトミン)とフランス植民地軍が激突し大規模な戦闘が繰り広げられたところである。
フランスは1860年代からベトナムを侵略し植民地化を進めて来た。
植民地支配は苛烈を極め、激しい搾取と圧制、ベトナム人の抵抗には弾圧でもって制圧してきた。
しかし、人々の抵抗は激しく、弾圧に立ち向かい、武力で押さえつけようとするフランスとの間で第一次インドシナ戦争が勃発する。
ホーチミン率いるベトミン軍の反攻により、すでに支配を維持出来ない状態に追い詰められたフランスは、劣勢を打破すべくラオス国境に近いディエンビエンフーに残存勢力を集結させ、ラオスからの補給路を断ち切り、ベトミンを一網打尽にすべく計画していた。
そして1954年3月、滑走路への砲撃を皮切りに、本格的な攻撃が開始された。べトミン軍司令官ヴォー・グエン・ザップの巧みなゲリラ戦術によっておよそ2ヶ月の戦いの末にフランスは敗北し、ベトナムのみならずインドシナから撤退することになった。
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滑走路の砲撃(写真パネル) |
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降伏するフランス軍兵士(写真パネル) |
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べトミン兵が勝利の旗を揚げた司令部 (写真パネル) |
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戦勝をよろこぶベトナム人たち(写真パネル) |
ラオスのウドムサイ(ムアンサイ)からムアンクアを経てベトナム国境へ、人影もまばらな鬱蒼とした山岳地帯を通り、急なカーブと入り組んだアップダウンの険しい道を行く。パテートラオ(ラオス愛国戦線)がこの険しい山々を伝ってベトミン軍に支援物資を送り続けたルートである。
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ラオスからベトナム,険しい道(写真パネル) |
ベトナムのディエンビエンフーの街はラオスと違い賑やかで、街中を少し離れると見渡すかぎり緑の水田が続き、晴れ晴れとしていて、空は高く突き抜けている。外国人旅行者の姿をみかけることはほとんどない。外人慣れしていないのか、大衆食堂のアンチャンに英語で話しかけると硬直して凍りつき、子供たちが「ハロー、ハロー」と声を掛けながら逃げていく。
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ディエンビエンフーの喉かな水田風景 |
子どもたち |
戦争の痕跡は街中にいくつも残されている。オブジェを展示してあるかのように、戦車や爆撃機の残骸がいたるところにある。
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フランス軍の戦車の残骸 |
フランス軍の爆撃機のプロペラ部分 |
「A1」の丘の大きなクレーターは、ベトミン軍が、丘の数キロ先から掘り進み、フランス軍の司令部の真下で960キロもの爆弾を炸裂させた跡である。
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「A1」の丘から見たディエンビエンフーの街 |
「A1]の丘クレーター跡 |
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A1の丘ジオラマ |
A1の丘 塹壕跡 |
フランス軍司令官ド・カストリーの立てこもった司令部跡も公開され、カマボコ型の屋根の上で国旗を振りかざしたベトミン兵の姿はこの戦いの象徴となっている。勝利の丘のモニュメントは旗を振ったこの兵士の像と言われている。勝利の丘は街を見下ろす展望台になっていてディエンビエンフーの街の全景が見渡せる。
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勝利の丘 |
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勝利の丘は展望台になっている |
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べトミン兵が勝利の旗を揚げたフランス軍司令部 |
勝利の丘のモニュメント |
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ド・カストリ―の司令部跡 |
モニュメント(拡大) |
勝利の丘から、およそ0、8キロばかり南下したところにディエンビエンフー戦勝歴史博物館がひっそりと佇んでいる。博物館には当時使用された武器や写真、実物大の人形などを使って、険しい山道を、物資などを運ぶ少数民族の姿やA1の丘での戦闘風景など、戦争の様子が具体的に分かるように展示されている。攻撃、爆撃機を持たず武器も古くて貧弱なベトミン軍が、いかに劣勢の中で、装備で優越するフランス植民地軍に勝利したのかが、よく理解できる。
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ディエンビエンフー戦勝歴史博物館 |
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展示室風景 |
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べトミン軍司令室・ホーチミン |
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物資を運ぶ少数民族 |
「A1]の丘 戦況がわかるジオラマ展示 |
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重機を運ぶべトミン兵 |
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重機を運ぶべトミン兵 (パネル写真) |
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塹壕で休息するべトミン兵 |
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野戦病院の様子 |
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岩石を砕いて運ぶ人々 |
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実際に使われた自転車 |
事務機器、コーヒーミル、ヘルメットなど |

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インドシナ戦争に反対するフランス人デモ(写真パネル) |
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ノンニャイ記念碑(フランス軍の空爆により死亡した少数民族444人の鎮魂碑) |
フランスは60年にわたりベトナムを植民地支配しながら、ベトナム人の頭の良さと不撓不屈の精神を理解できなかった。フランスが撤退してから、アメリカはディエンビエンフーの戦いから何ら教訓を得ることなく、ベトナムに介入し第二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)の泥沼へと突入していくことになる。
2016.11.24
(文・写真とも坂本正通)
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