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Mes souvenirs d'Italie

I mièi ricordi d'Italia

伊太利亜の想い出




ペルジャー外国人大学
 UNIVERSITÀ  ITALIANA  PER  STRANIERI  PERUGIA

 ペルジャー外国人大学は外国人のために設置され、留学生がイタリア語を研修する学校である。もちろん、イタリア文化、イタリア美術、言語学などを専門的に学ぶ、学士課程も設置されている。
 Segreteria(
事務局)で入学手続きを終え、2カ月の短期コースを受講した。
Mazzetti(マゼッティ)先生はイタリア語教育の権威であり、又、あることで有名な先生だった。授業は理解しやすく、楽しかった。2カ月間でおおよそのことは話せるようになった。
 ペルジャーの生活は短かったが、イタリア及びヨーロッパ文化に初めて触れ、イタリア語を共通言語に、いろいろな国籍の人達と語り合った。世界観も主義主張も文化の背景も異なる人たちとの交流によって、多様な視点から物事を考えられるようになったのが、何よりの宝物と思っている。


     マゼッティ先生


         
            クラスメート



ブレラ国立美術学院
ACCADEMIA  DI  BELLE ARTI  STATALE  DI  MILANO

 ソフィア・ローレン主演の映画、「ひまわり」の冒頭で、ジョバンナが階段を駆け降りて行くシーンがある。ここがブレラである。
 元々はイエズス会の教育施設であつたが、1776年にハプスブルク家の女帝マリア・テレジアがイエズス会を解散させ美術学校を創設した。
その後、19世紀初め、ナポレオン統治時代に、ナポレオンの文化政策によって施設の充実が計られた。中庭には、ナポレオン一世の銅像が建てられている。
 イタリアの国立大学の中庭に
何故?ナポレオンと思うが、そこがヨーロッパの歴史の複雑で面白いところだ。地下鉄のドゥオーモ駅で降り、大聖堂を背景にガレリアを進み、、ダヴィンチ像を見上げ、スカラ座を曲がり、ブレラ通りを歩いて、学校へ、そしてナポレオン像だ。おまけに、2階は世界的に有名なブレラ絵画館(Pinacoteca di Brera)だ。毎日が文化遺産の見学ツアーだ。
 下校時はナポレオン通り(Via Montenapoleone)でブランド品のウィンドー・ショッピング、おかげでモレスキー(MORESCHI)の靴が何足も家にある。ヨーロッパの伝統は長く、奥深さを感じさせる。

(美術学校の創設には1836年という説もある。
ブレラの語源は昔、この周辺がブレイラ(野原)だったと言う説があるが、これは疑わしい。
郊外にアルュレー分校を設置、現在50か国、3700人の外国人学生が在籍している。)








ジャンカルロ マルケーゼ教授 
ProfGiancarlo Marchese 

 ブレラではジャンカルロ・マルケーゼ教授の教室を選んだ。
マルケーゼは学生の自主性を尊重し、どのような作風の学生でも受け入れていたからである。

 
マルケーゼ先生は酒好きで、何時も赤ら顔で「ロレ、ロレ、ロレ」といった感じで話されていた。普通の人から見れば、ただのアル中オヤジだ。
シリアスな作品を作る割には、学生にはジョークばかり話していた。

マルケーゼ先生は無言のうちに自身の制作を通して、「芸術活動の神髄」を教えてくれたように思う。
振返つて考えれば、偉大な彫刻家に学べた事を誇りに思う。



   マルケーゼ先生と日本人留学生
   左からY・Yさん 先生 M・Nさん H・Tさん




マルケーゼ教室(1)

 写真の背景にある頭蓋骨は珍・巨大人類のモノではない。
誰かが作ったモノだ。

 僕が二年生の時、先生が解剖学の教授に頼まれ、安請負してきたものだ。我々には頼みづらいのか、新入生のイタリア人学生5、6人の共同制作として制作したモノである。
 さすがに民主主義の国である、みんなで話し合いながら制作を進めていた。

 粘土で原型を作り、雌型をとり、石膏取りしたもので、石膏の雌型取りは、かたわらで見ていても、気の毒なぐらい、めんどくさく、大作業であつた。あまりの難しさに、みんなで投げ出してしまつた。さすがに民主主義の国である。
 困った先生が日本人のYYさんに頼み込み、彼から「マルケーゼが困っている、一緒に作らないか?」と言われて、二人で完成させたモノである。
二人で作ったと言っても、YYさんが頭部を僕が下顎をと、別々に作ったものである。
 当時は「ほんまに、こんなアホなもん作るんか」と思っていたが、今となっては、あの頭蓋骨は粗大ごみとして捨てるには大きすぎるし、ひょつとして、ブレラの解剖学教室にあるのでは?と思うようになった。  
兎に角、イタリアに残してきたのは、この頭蓋骨の「下顎」だけである。
 是非、一度、巨大頭蓋骨と再会したいものである。





ブレラのクラスメート(1) 
Compagne di scuola di Brera

Castello()の測量をして、庭園を設計すると言うプロジェクトの
Scambio(話し合い)のワンショット。和気あいあいの雰囲気である。
イタリアの学校とはいえ、スイス人、アメリカ人、日本人と
多国籍である。スイスの場合、イタリア語圏に大学がないので、
手っ取り早く、イタリアの学校に入学してくる。
さまざまな事情を抱えているものだ。

 ペルージャーではウンブリア(Umbria)地方の美しい
標準イタリア語を勉強したが、ミラノではアメリカ人の巻き舌の
「汚いイタリア語」を毎日のように聞かされていた事を思い出した。




ブレラのクラスメート(2) 
Compagne di scuola di Brera

サルバド―レはナポリの出身で背が低く髪が黒かった。イタリアの南北問題を象徴している様な男だ。
 ブレラの同期だが、「金を稼がねばならない」と言って、一年で中退した。
ドウーモ(
Duomo)周辺で似顔絵を描きはじめた。彼の似顔絵の特徴は、ちっとも似ていないことだ。
通りすがりに留守番を頼まれ、ヒヤヒヤした思いがある。
Questura(公安警察)に尋問されたら、労働行為とみなされ、国外退去処分だ。
 あの業界も、生存競争が激しいのか、彼の姿を見かけなくなった。






アルベロベッロ/ Alberobello

イタリア留学中はヨーロッパ各地を旅した。そして、一番心に残っているのがBariにあるアルベロベッロである。1996年に世界文化遺産に登録され 観光客が押し寄せているとの事だが、僕が旅した80年代初め頃はドイツ人かアメリカ人の、よほどのモノ好き以外は訪れる人もなく、陽溜まりでネコが一匹、昼寝しているのが良く似合っている光景だった。
トルッロ(Trullo)と呼ばれ、キノコのような形のトンガリ屋根で16世紀半ばに建てられたらしい。平らな形の石を積み重ねた白い漆喰壁がまるで「おとぎの国」のようであった。
当時の領主様が税金をごまかすため、すぐに解体できる家作りを指示したとのエピソードがある。
 イタリアはドイツ、ギリシャ、トルコ、アラブなどいろんな民族が往来し、戦争とともに異文化をもたらした。トルコにも似た建物があるので、恐らく中近東からの影響が考えられる。
 イタリア国鉄のツーリスト周遊券で旅した、BariからSudEst駅の区間は私鉄だったので、車内で罰金を取られたことを思い出した。





ロンシャン礼拝堂、/ ル・コルビュジェ
Chappell  Notre-Dame Du Haut / LeCorbusier

 昼さがり ミラノの自宅でエスプレッソを飲み、ビスケットをかじっていたら、突然、友人が訪ねて来た。オリベッティの研修生でPolitecnico(ミラノ工科大学)に籍を置く、TNさんだ。彼は東京造形大学の出身で高校の同窓生でもある。「今からロンシャンへ行こう、ル・コルビュジェの教会を見に行こう」
兎に角、断ろうとしたが、「行こう、行こう」と粘り強く言いつづけ、およそ2時間後、荷物をまとめ出発することになった。
ただひたすら地図片手に、T・Nさんの愛車、赤のフィアット?を飛ばした。道中、ほとんど記憶にない。チュリッヒとベルフォール(Beltfort)に宿をとった事はうっすら憶えている。
生憎、当日は曇り空で寒かった。丘の上?に不思議な建造物があり、キノコか何か巨大な船のような印象だった。
帰路?チュリッヒにあるコルビュジェセンターを訪れた。モダンデザインの建物で、何か斬新な思いであった。湖畔の近くの公園内にジャンクアートの先駆者、ティンゲリーの彫刻が設置してあった。
イタリア在留中、ヨーロッパ各地の芸術作品を見て回ったが、今となっては、心の糧となり、創作の源となっている。

 




     ロンシャン礼拝堂


       コルビュジェデザインのドアーの取手に注意



     コルビュジェセンター



ティンゲリーの壮大な彫刻



バルカモニカの遺跡/I resti di prestoriia di Valcamonica 

ミラノから北東、カーポ・ディ・ポンテ(Capo di ponte)に先史時代の遺跡があると言うので、マルケーゼ教室のYYさんとHTさんと3人で行く計画を立てた。
 土曜日の早朝に長距離バスでミラノを出発した。Capo di ponteでバスを降り、帰りの最終バス便を確認してから、バルカモニカに向かった。夕方になって、バス停でバスを待っていたが、なかなか来ない、待ち続けたがバスは来なかった。
通りがかりのおじさんに聞くと、「今日は祝日だから、バスは終わっているよ」との答えで唖然とした。
同じバス会社の運行なのに、ミラノでは平日ダイヤで、田舎では祝日ダイヤに成っている。

 日が暮れて、腹が減って来て、公園のトンガリ帽子の小屋を見付けたので、3人合議の上、野宿することにした。
 栗林で栗の実を拾って、キャンピングガスで炒ると、中からウジ虫がゾロゾロと出てきた。空腹には耐えれない。
 とにかく、村を探そうと言う事で、ヒッチハイクを試みた。車は何台も通りすぎたが、むなしい結果に終わった。
 結局、集落まで歩いて行った。夜も更け、腹が減って、ただ歩き続けた。はるか向こうに、集落の明かりが見えた時は3人で歓喜し走って行った。
バールに飛び込んだ。幸運にも1階がバールで
2階がAlbergo(宿屋)に成っていた。数人のおじさんがワインを飲んでいた。
 とにかく、日本人など見たこともない人たちで、盛大に、飲めや食えやと、歓迎してくれた。
その夜は、YYさんの爆音に近い鼾にかかわらずぐっすりと眠れた。






ボルッアーノ/ Bolzano

  オリベッティの研修生のTNさんとカッシェラー教室のHWさんの3人で旅をした。記憶というものは曖昧なもので、目的地が何処だったか、さっぱり思い出せない。
 憶えている事は、夕暮れ時、ヴェローナ(Verona)に着いた。HWさんの説明ではローマ時代の遺跡で有名な所と言うことである。3人で教会を見学した。 その後、何時間か車を走らせた。すっかり夜になって、不思議な街に迷い込んだ。迷い込んだと言う、表現がピッタリだ。
建築物はゲルマン風で、立ち寄ったバルー(Bar)のウエートレス(Cameriera)の服装もゲルマン風である。
それに、例外なく、イタリア語が下手である。

 HWさんがウエートレスの姉ちゃんに「ここはイタリアなのに、どうして貴女の服装はドイツ風なのか?」と聞いたら、「元々ここはオーストリア領で、私たちはイタリア人とは思っていない」との返事であった。
戦争によって、国境がひかれ、民族が分断された悲哀を感じる。イタリアにドイツ語圏があることはあまり知られていない。


           








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