「歴史とは」


  歴史とはある限定された期間、時期に起こった「事実」、「出来事」で、それをどのように考察し、未来に対してどのような行動をとればよいのか考えるのが歴史学である。
 
 ある過去の「事実」を解釈すると言っても「事実」は一つなのに考え方によって、さまざまな結論が導きだされる。だから、ランケが言ってるように、事実は個人の主義主張に都合のよいものではなく、誰もが納得出来る客観的なものでなければならない。史料は書き手の意図や偏向を含んでいるし、悪意の「虚偽」も存在する、だから誰によって何の目的で書かれたのか考えなければならない。そして、主張して差し支えないと考えられる解釈を結論として提示する必要がある。
 歴史学は本来人間がいかに生きるべきかの指針になるべき学問なのに、国家権力によって、歪められ戦争の道具として役立たされて来た。ドイツのナチズムが最も良い例だが、日本でも「皇国史観」と言って万世一系の天皇が統治する国として戦争に向けて日本人の意識を統制してきた。基本的人権も言論の自由も個人の表現の自由も認められない、怖い過去がある。
 戦後60年、日本の国家そのものが変換期にあると言える。自民党の安倍政権は「戦後レジュームからの脱却」と心地好い表現を使い憲法の改正を目論んでいるが、それらの一連の動向が何を意味しているのかを考えて欲しい。「戦前の社会体制」への回帰とは結局、国家のために国民が奉仕する、国家の言う通りにロボットのように動く社会体制を築こうとしている事だ。教育においても民主主義の原理を否定し、すべて上からの命令には従えと言うものだ、「自我」も「個人の尊厳」もみとめられない。
 戦後の社会体制に多少の誤りがあったとしても民主主義によって物事を決定し、個人の人格の完成をめざして教育が行われてきた事は素晴らしい事ではないか。
 物事の真実を見据え、現在、起こりつつある出来事に対して自分の頭で考える事が必要だ、そのために歴史を勉強する必要がある。
 たしかに、社会思潮の変化に順応し自分の意見を変えつつ世渡りする事は賢い生き方かも知れない。しかし、これは人間としての「自我」とか「個人の人 格」の未発達と思われても仕方が無い。間違った事は間違いであると判断することは必要な事である。
 日本民族とドイツ民族では類似点もあれば、異なる点もある、ドイツでは戦後、ナチスの戦争犯罪に関して歴史学者が史学論争を繰り返してきたが、日本の歴史学者が戦前の戦争責任について史学論争をしたといった話は聞かない。我々日本人も戦争責任について歴史学論争をする必要がある。

 今から25年程前、何かの本で読んだ事だがドナルド、キーンが「日本はいつ全体主義になってもおかしくない、日本人の民族の血の中に全体主義の思想が流れている」と述べていた。今まさに、日本の社会が戦前の社会体制に戻りつつある時に、いかに考えいかに行動すべきか考える必要がある。
                                                 

                                            2007年 7月





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